top of page
ChatGPT Image 2026年9月18日 09_31_11.png

Yusuke Shimizu
清 水  勇 佑

Architect /​ ​​Architectural critic

建築家・建築評論家

第1章|2019年──問いのはじまり

「建築をいかに評価すべきか」という根源的な問いとの邂逅

第2章|2020年──制度としての第一歩

全国建築学生賞の創設と、透明性のある審査構造の設計

第3章|2021年──視座を世界へ

世界建築学生賞(WASA)の設立と、「評価=翻訳」という思想

第4章|2022年──孤独と確信のあいだで

大学院進学と評価実践の深化、そして社会的抵抗との遭遇

第5章|2023年──実務の臨界と思想の接続

建築事務所での実務経験と、建築思想の体系化に向けて

第6章|2025年──審査するということ

設計展FLAPで見えた「評価」の本質

第7章|2026年──卒業設計展のその先へ

5年間の観察から見えた建築評価の限界と、GAASが拓く次世代の知の基盤

第8章|2026年──客観性の獲得

建築デザインと設計評価における、新たな知的基盤

第9章|2026年9月12日──理解されない未来

建築新人戦審査員の建築評価の停滞とGADOが独自に進むべき理由

第1章|2019年──問いのはじまり

「建築をいかに評価すべきか」という根源的な問いとの邂逅

2019年、私はひとつの問いと向き合いはじめた。

「建築を、いかに評価すべきか。」

この問いは、表層的には建築賞やコンペティションにおける審査手法の問題であった。しかし、その奥には「建築とは何か」「良い建築とは何か」、そして「完璧な建築デザインとは何か」という、より根源的な哲学的問いがあった。

ここでいう完璧な建築デザインとは、すべての人に好かれる造形や、唯一の正解となる建築を意味しない。社会、都市、場所、環境、使い手、文化、技術、経済性、時間といった無数の条件に対して、どれだけ深く応答し、それらの関係を高い水準で統合できているかという状態である。美しさだけでも、機能性だけでも成立しない。設計者の思想が空間や構法、素材、動線、運用にまで一貫して現れ、建築が社会に対して新たな価値を生み出していること。その複雑な総体に近づこうとする営みこそが、私にとっての「完璧な建築デザイン」であった。

当時、私は日本国内でも最大規模を誇る建築教育機関のひとつである、日本大学理工学部建築学科に所属していた。優れた学生が集い、極めて競争的な環境のなかで、日々設計と格闘していた。

特にデザインスタジオでは、作品ごとに1位から8位程度まで明確な順位が付けられる制度があった。複数の教授が一堂に会し、長時間にわたって講評と議論が交わされる。その光景は一見、民主的で真摯な審査に見えるかもしれない。だが、実際には、その多くが私にとって到底納得できるものではなかった。

なぜ、あの作品が1位なのか。なぜ、自分の提案はこの順位なのか。

議論の過程に明快な評価基準はなく、ときには「前回、同じ学生を上位にしたから、今回は別の学生にしよう」といった配慮によって、審査結果が調整されることさえあった。努力や提案の質が透明な軸の上で評価されるのではなく、目に見えないバランス感覚のなかで順位が決まっていく。

その構造に対して、私は強い怒りを感じていた。しかし、怒りよりも大きかったのは、深い虚しさであった。私は誰よりも建築設計に時間を注ぎ、毎課題で学年1位を目指し、思考と表現の限界に挑みつづけた。それでも結果は、ときに説明のないまま、他者の好みや場の空気によって左右されていた。

もちろん、主観的な講評には大きな価値がある。そこには経験から導かれた鋭い洞察があり、多様な視点からの批判がある。若い設計者にとって、それは新たな知見を得る貴重な機会であり、設計力を鍛えるための重要な養分となる。

しかし、「順位づけ」や「受賞の決定」といった決定的な評価を、主観だけに委ねてよいのだろうか。私は、その矛盾と不透明性に強く向き合わざるをえなかった。

建築とは本来、極めて複雑な構造体である。単に美しさや斬新さを競うものではない。社会的な文脈、環境への応答、人間の感覚への配慮、構造的合理性、経済性、施工性、文化的記憶との対話までを含んだ、多層的な知の集合体である。

にもかかわらず、その全体像は、講評という限られた言葉や審査員個人の美学によって、あまりにも容易に切り取られ、評価されていた。私はその現実に大きな危機感を抱いた。

評価とは、本来、建築の価値を深く読み取り、設計者の思考の痕跡に丁寧に寄り添い、その作品がもたらしうる空間的・社会的可能性を発見する行為であるべきではないか。

私は、建築における評価のあり方そのものを問い直し、設計しなおす必要があると感じた。それは単なる採点や批評の話ではない。建築表現が持つ構造、意味、意図、情動、そしてそれを取り巻く環境的・文化的要素を多角的に読み解き、言語化し、ときには数値化する。これは、評価そのものを新たな建築的読解行為として捉え直す試みである。

このとき私が出会ったのが、建築における定量評価という概念であった。

定量評価は、感性を否定するためのものではない。むしろ、個人の内側にある感性や判断を、他者と比較し、共有し、検証可能にするための補助線である。主観的な批評と客観的な評価を対立させるのではなく、両者を接続すること。その可能性を追究することが、以降の私の活動全体を導く、ひとつの確かな原点となった。

第2章|2020年──制度としての第一歩

全国建築学生賞の創設と、透明性のある審査構造の設計

2020年、私はついに、思考を実践へと移す決断を下した。

それまで抱え続けてきた「建築をいかに評価すべきか」という違和感と、その応答として見出した「定量評価」という着想を、もはや個人の内面にとどめておくのではなく、社会に対して具体的な制度として提示すべき時が来たと感じたからである。

こうして立ち上げたのが、全国建築学生賞であった。

この賞は、単なる表彰制度ではない。私が設計しようとしたのは、「建築の評価軸そのものを再構築する仕組み」である。既存の建築賞に内在しがちな、審査員個人の審美眼や慣習、印象に過度に依存する評価から距離を取り、透明性、論理性、多様性にひらかれた審査構造を、制度の中核に据えることを目指した。評価の中心に置いたのは、レンダリングの第一印象やグラフィックの巧拙ではなく、設計者がどのように考え、どのように建築を構想したかという、思考の構造そのものであった。提出された文章データについては、自然言語処理の考え方を参照しながら、語彙の広がり、論理の構成、概念の重層性といった観点から、「設計言語の深度」を読み解く独自の評価手法を構築した。また空間構成についても、幾何学的要素と機能的要素を階層的に整理し、空間的な意図の整合性や重層性を読み取るためのマトリクスを導入した。

これにより、従来は曖昧に語られがちだった「良い設計とは何か」という問いに対して、ひとつの論理的な読解の回路を与えようとした。

私は自ら審査の設計と運営を担い、審査員長として全体を統括した。当時、私は21歳の大学3年生であり、制度的にも社会的にも、本来は「評価される側」と見なされる立場だった。

それでも私は、審査そのものが制度として不透明であり、ときに恣意的に作用してしまうことに強い危機感を抱いていた。それを問い直すのであれば、制度を設計する者自身が、評価の責任と意図を明確に引き受けなければならないと考えた。

一方で、当時のコンペティションでは、審査員としての自分の名前をあえて前面に出さなかった。表向きには「自動評価システムによる審査」という形式を採用し、個人の権威ではなく、評価機構としての透明なプロセスを提示した。

これは、建築家個人の名声や好みによって結果が左右されうる従来の審査に対する、静かな批評でもあった。同時に、評価の主体を特定の個人から切り離し、匿名性と客観性を備えた制度へと転換しようとする思想的な試みでもあった。

この取り組みには、予想を超える数の作品が集まった。応募総数は数百件におよび、そのなかには、この試みに真摯に共鳴してくれる設計者も少なくなかった。

自分が提起した問題が、孤独な空論ではなく、確かな支持と手応えをもって受け止められている。その実感は、私にとって大きな励みとなった。

全国建築学生賞は、単に優劣を競うための場ではなかった。それは、「建築の何を、どのように評価するべきか」という問いを、学生、建築家、教育者、そして社会全体に投げかけるための場であった。

この経験は、その後の活動における揺るぎない原動力となった。そして、「建築を評価するとはどういうことか」という問いを、より深く、より実践的に探究していく契機となった。

全国建築学生賞は、私自身にとって、評価という構造そのものを書き換えるための最初の制度的な一歩であった。

第3章|2021年──視座を世界へ

世界建築学生賞(WASA)の設立と、「評価=翻訳」という思想

2021年、私は世界建築学生賞(WASA)を設立した。

建築デザインの評価において、従来の国内的な視座を超え、より客観的で普遍性のある評価のあり方を考えるためには、評価のスケールそのものを世界へと開く必要があると考えたからである。

これは、単に海外からの応募を受け入れる国際コンペティションを設けるという意味ではなかった。むしろ、建築を語り、読み解き、評価するための言語体系そのものを根本から再構成しようとする試みであった。

世界には、異なる文化的背景、宗教的価値観、政治体制、生活様式、気候条件、経済状況、そして建築教育の思想的基盤が存在する。それぞれの地域において建築は異なる課題に応答し、異なる意味を担っている。そのため、ある地域の常識や特定の審美観だけを基準として、世界中の建築提案を評価することはできない。

WASAが目指したのは、特定の価値観を唯一の正解として押し付けることではない。多様な提案を比較可能なかたちで読み解きながら、それぞれが置かれた文脈と固有性を尊重できる、普遍的でありながら柔軟な評価枠組みを構築することであった。

この実践を通じて、私は「評価」とは単なる優劣の判定ではないという認識を、より強くするようになった。評価とは、異なる文化、条件、設計思想のあいだを行き来し、それぞれの価値を他者に伝わる言葉へと置き換える知的行為である。

すなわち、評価とは翻訳である。

設計者が置かれた場所の条件、提案に込めた思想、空間に託した感覚、そして社会に対して示そうとした可能性を読み取り、それを異なる背景をもつ人々にも理解できるかたちへとつなぐ。その橋を架けることこそが、国際的な建築評価に求められる役割だと考えるようになった。

客観的な評価論を発展させる一方で、私はもうひとつの本質的な問いに直面していた。

建築設計そのものの思考と、評価をどのように結びつけることができるのか。

私は、客観と主観を対立するものとして捉えていない。むしろ両者が相互に作用し合い、互いを高め合う設計実践こそが、これからの建築家に求められるのではないかと考えた。

設計者は、意識的であれ無意識的であれ、常に創造と評価のあいだを往還している。考え、つくり、見直し、比較し、再びつくり直す。その反復のなかで建築は形づくられていく。もしその構造を意識化し、共有可能な方法として整理できるならば、建築デザインには新たな次元が開かれるはずだと信じていた。

その思索の実験場となったのが、自身の卒業設計である。

私は、主観的なデザインプロセスのなかに、あらかじめ構築していた客観評価のアルゴリズムを組み込んだ。提案に用いる語彙の構造や、空間意図の整合性、概念の重層性などを分析し、その結果を設計へフィードバックする。評価と設計を反復的に往還させながら、提案を再編していく手法を試みた。

それは、感覚や直感に大きく依存してきた従来の建築設計プロセスに対する批評的実践であった。同時に、評価の制度構造そのものを更新するための設計行為でもあった。

この実践を通じて、私はひとつの確信を得た。批評と設計は分断されるべきものではない。両者は、建築文化の未来をともに構築する両輪である。

設計することと評価すること。その二つを同時に担い、往還させることが、以降の私自身の建築実践の基本的な姿勢となった。

しかし、このような考え方は、当時の日本では容易に受け入れられるものではなかった。

日本各地には、地域単位や大学単位で数多くの卒業設計展が存在する。しかしその多くは、審査員の審美的感性や経験則に強く依拠した、主観的な評価構造のもとにあった。私は、まさにその状況にこそ、客観的な評価軸を補助線として導入する必要があると確信していた。

その信念のもと、私は全国の卒業設計大会の代表者と接点を築き、予選や本選におけるAIを活用した客観評価の導入を提案した。

だが、現実の反応は冷ややかなものだった。

当時の私は、まだ大学4年生だった。提案は十分に取り合ってもらえず、「AIによる評価」という言葉を口にした瞬間、面談の空気が凍りつくように感じた場面もあった。当時は、社会全体においてAIに対する理解や信頼がまだ十分に浸透しておらず、設計をAIで評価するという発想自体が、理想論や夢物語として扱われることも多かった。説明も拙く、若さゆえに構想の本質を十分に伝えられないこともあった。自分の考えを社会的な言葉へと翻訳することの難しさは、何度も大きな壁として立ちはだかった。

もちろん、私は建築家による主観的な講評や討議の意義を否定しているわけではない。そこには、経験から生まれる鋭い洞察や、設計者への深い共感がある。そうした知的格闘の積み重ねが、建築文化を前進させてきたことも確かである。私が問い続けているのは、主観的な講評そのものではなく、そのなかに不可避的に組み込まれがちな「順位づけ」の構造である。若い設計者にとって、評価は創作を前へ進める大きな力になりうる。しかし、それが評価者の気分や場の空気、均衡への配慮といった偶然性に左右されるならば、才能の正当な評価を曇らせ、創造への意欲を不当に損なう危うさをもつ。

評価とは、本来、文化を紡ぎ、未来を描く行為である。

その重みと可能性を見据えるならば、評価制度は属人的な判断や偶然性だけに委ねられるべきではない。多様な視点を受け止めながらも、構造としての信頼性、透明性、そして説明責任を備えていなければならない。

私は、評価の再設計こそが、これからの建築の言語を新しくする鍵になると信じている。

第4章|2022年──孤独と確信のあいだで

大学院進学と評価実践の深化、そして社会的抵抗との遭遇

2022年、私は大学院へと進学し、本格的な就職活動の時期を迎えた。

同時に、世界建築学生賞(WASA)の審査員長としての活動を継続し、その根幹を支える評価システムの設計と研究にも取り組みつづけていた。大学院では、研究室の一角に自らの作業空間を設け、そこを拠点として、ひたすら思索と実践を反復する日々を送った。

人との交流、学内での共同活動、日常のささやかな楽しみ。その多くを意識的に手放していた。「いま自分がやるべきことはこれだ」という確信があり、その確信のために、私は孤独を引き受ける選択を重ねていった。

就職活動においては、自らの世界を広げるため、スーパーゼネコン、大手組織設計事務所、アトリエ系設計事務所など、多様な企業にアプローチした。

私が提示したのは、世界建築学生賞を通じて積み重ねた評価システムの運営実績、自然言語処理や空間マトリクスを用いた定量評価の研究、そして学生時代から培ってきた設計力である。

それらは単なる能力や実績の列挙ではなかった。設計と評価を接続することで、いかに建築文化や組織の創造性に貢献できるか。その可能性を示すための、一つの文脈として提示した。

結果として、複数の企業から高い評価や推薦を受けた。私の経験と能力は、既存の枠組みにとらわれない設計者像として受け止められ、就職活動という場においても、他者とは異なる問いと実践を携えて臨むことができた。

しかし一方で、私が追い求めてきた「公平な評価軸」が、すべての企業に歓迎されたわけではなかった。

あるスーパーゼネコンでは、面談の場で「そのような評価システムは実務では意味を持たない」と言われた。確かに、学生の設計と実務の設計は本質的に異なる。実務では、工期、コスト、法規、施工性、事業性、発注者との合意形成など、複数の現実的な条件が設計の前提となる。

その現実を理解しながらも、私は考えた。建築デザインが単なる調整事項として後景化すれば、企業における設計文化そのものも弱くなってしまうのではないか、と。

国内最大手の組織設計事務所でも、「建築設計は研究のように論理的には進まない」と指摘された。上司との関係性、人間的な相性、現場の空気感といった非論理的な要素が、設計の方向性にも影響を及ぼす。その指摘には、業界に触れるなかで一定の納得があった。

しかし同時に私は、定量的かつ客観的な評価を導入することが、設計から主観性を奪うのではなく、設計プロセスに新たな視点と精度をもたらすと信じていた。

実際、この考え方に共鳴する建築家も、国内外に存在した。設計と言語、評価と創造の融合に関心を示し、この試みに評価を寄せる設計者との出会いもあった。

私はこの時期のプロジェクトを、「完璧な建築家」と題していた。

これは、定量評価を通じて蓄積した建築の特性データを設計プロセスへと還元し、評価とデザインの連携を極限まで高めようとする試みである。設計された建築を評価するだけではなく、評価から得られた知見が次の設計を更新していく。その循環をつくることを目指していた。

しかし、その実践を深めるなかで、私は重要な事実にも気づかされた。

自らが構築してきた評価システムもまた、建築思想や建築史のなかにある、ひとつの立場にすぎないということである。定量評価は万能の答えではない。それは主観的な批評を置き換えるものではなく、建築を異なる角度から読み解くための、新たな方法のひとつである。

前衛的な実践を続けるなかで、私は自分自身を客観的に見直す視点を取り戻した。

思想のラディカルさは、常に自己批評によって支えられていなければならない。

この認識は、以降の私の活動において重要な基盤となった。客観性を掲げる者こそ、自らの評価軸や前提を問いつづけなければならない。その姿勢なしに、評価の公平性を語ることはできない。

一連の就職活動を経て、私は、自分が求めるかたちで建築評価と設計の統合を本気で実践している場が、当時の日本にはまだほとんど存在しないという現実に直面した。

そこで私は進路を見直し、大手企業ではなく、アトリエ系の設計事務所を選ぶことを決断した。建築家のもとで実際のプロジェクトに深く関わりながら、日々の設計を通して「デザインとは何か」「評価とは何か」を問いつづけることができると考えたからである。

そして、客観的評価の体系化については、既存組織の枠組みに委ねるのではなく、自らの活動として静かに、しかし確実に深化させていくことを選んだ。

この選択は、孤独のなかで得た確信を、社会へ接続するための準備の始まりでもあった。

第5章|2023年──実務の臨界と思想の接続

建築事務所での実務経験と、建築思想の体系化に向けて

2023年、私は建築事務所にデザインスタッフとして入所し、実務における建築デザインの探究を本格的に始めた。

この選択の背景には、建築をより俯瞰的に捉え、用途、規模、素材、構法、環境、文化的文脈といった多様な条件を横断的に統合する、構造的な思考を自らの内に築きたいという強い意志があった。

建築事務所での実務は、単一の様式や固定された美学に依拠するものではない。プロジェクトごとに異なる場所、環境、規模、社会的要請に応答しながら、空間、構法、素材、都市との関係を再構成していく。文化施設、商業建築、住宅、都市計画、地域再生、国際的な文化拠点まで、多様な領域にまたがる実践のなかで、建築を単なる現象としてではなく、「構造化された知」として捉え直す設計姿勢に触れた。

それは、私にとって俯瞰的かつ体系的な思考を養う場であった。

この実務経験は、建築を観察し、解釈し、再構成するための認識枠組みを獲得する訓練でもあった。同時に、これまで探究してきた評価と設計の統合を、思想だけでなく実務の水準で接続していくための基盤でもあった。

実務設計は、学生時代の設計とは比較にならないほど、具体的で現実的な応答を求める。

建築デザインの核を保ちながら、工期、予算、クライアントとの対話、法規、施工性、構造、設備、維持管理といった無数の要素を並行して扱い、それらをひとつの建築として統合しなければならない。

私はこの経験を通して、建築デザインを実際の建築物へと昇華させるためには、学生時代に想定していた以上に、構成要素を細分化し、関係を整理し、全体として体系化する力が不可欠であることを実感した。

一つの建築は、単一のアイデアだけでは成立しない。理念、空間、形態、素材、構造、環境、施工、経済、運用が、相互に矛盾することなく結びつくことで初めて、社会のなかに実在する建築となる。

この現実に向き合うなかで、自らが進むべき方向も、より明確に像を結び始めた。

現在、AIやプログラミング技術は、法規、構造、設備などの制約条件を最適化するための手段、あるいは形態を生成するためのツールとして用いられることが多い。

しかし、私が目指しているのは、それらの技術を単なる部分的な道具として扱うことではない。建築デザインの思想的・構造的な全体像を捉え、その大きな枠組みのなかに、AIやプログラミングによる分析・生成・比較の技術を位置づけることである。

すなわち、目指すのは「AIによる設計」ではない。

建築思想そのものが、複数の条件を読み取り、関係を整理し、仮説を比較し、判断を更新していくようなAI的構造を内包すること。そのような新しい「設計=評価」のモデルを構築することである。

実務経験と思想的実験を並行して積み重ねるなかで、私は自身の活動の軸として、GAD-O(Global Architectural Design Organization)の構想を進め始めた。

GAD-Oが目指すのは、建築デザインにおける客観評価を制度化し、設計の価値を多面的に読み解くための評価体系を構築することである。評価と設計を断絶した行為として扱うのではなく、両者を相互に内在させる。評価が設計を更新し、設計の実践が評価の枠組みを更新する。その循環を通じて、建築文化の新たな基盤をつくることを目指している。

建築事務所で得た実務の視点は、この構想に現実性と厚みを与えた。抽象的な評価論だけでは、建築は動かない。実際の建築には、社会の条件、技術の条件、人々の生活、事業の成立、そして時間の積み重なりがある。

私はいま、設計者としての技術と思想を深めながら、同時に制度構築者としての視点と責任を引き受けようとしている。

建築を「つくる」ことと「読む」こと。
「評価する」ことと「設計する」こと。

それらを対立ではなく、ひとつながりの行為として捉える。この実践は、私にとって、建築を生きるということそのものになりつつある。

第6章|2025年──審査するということ

設計展FLAP2025で見えた「評価」の本質

 


GADOの構造化評価と公開審査の狭間で考えた、建築評価におけるデータと人間の役割

2025年、私は建築学生コンペ「設計展FLAP」の審査員として、初めて公開形式の審査に参加した。

これまで私は、世界建築学生賞(WASA)をはじめ、GADOのデータベースを用いた研究・分析型のオンライン審査を主導してきた。評価の過程を可視化し、主観的な偏りを抑えながら建築の価値を多面的に読み解く、新たな審査の仕組みを模索してきたのである。

しかし、公開の場で他の審査員と向き合い、一人の審査員として自らの票を投じる経験は、それまでの研究や制度設計とは異なる問いを私に投げかけた。

従来の建築審査では、建築家の主観や第一印象、その場で交わされる議論によって順位が決まることが少なくない。私は、そのような評価のあり方に対する補助線として、データに基づく客観的な評価方法を探究してきた。

しかし実際に一票を投じてみると、その一票には、単純な数値では表せない多くの要素が含まれていることを実感した。

各審査員のなかには、それぞれ異なる建築観、経験、価値観、迷い、葛藤がある。多数決という形式は一見すると明快だが、その内側では、異なる思想が交差し、衝突し、ときに折り合いをつけながら結論へと向かっていく。

どれほど優れた審査員を集めても、最終的な順位には「支持の集まり」という側面が残る。すなわち、人気投票に近い構造を完全に避けることは難しい。

しかし、実際にその立場に立ったからこそ、私はその構造を外側から批判するだけではなく、内側から理解することができた。この経験は、評価制度を考えるうえで大きな収穫となった。

評価とは、単なる数値処理でも、単なる主観的判断でもない。異なる思想が出会い、建築の可能性をめぐって対話する場である。

設計展FLAPの審査は、三段階で構成されていた。

まず、設計者による説明を伴わず、提案書のみを読む予選審査。次に、1分間のプレゼンテーションと質疑応答を伴う二次審査。そして、公開形式で行われる最終審査である。

この複数の段階に立ち会うなかで、私は、提案書から設計を読み取ることと、設計者本人の言葉を通して理解することでは、見えてくる世界がまったく異なると痛感した。

図面、模型、パース、文章といった提出資料からは、提案の構成や空間的特徴、論理の一部を読み解くことができる。しかし、紙面だけでは伝わりにくいものがある。

設計者が何に違和感を抱き、どのような経験から着想を得て、どこに最も強い意志を込めたのか。設計者の感覚、人柄、経験の積み重ね、言葉にしきれない思考の密度は、対話を通じて初めて立ち上がってくる。

図面やパースの背後にある、「設計者という人間」の存在。その存在を読み取ることもまた、建築を評価するうえで欠かすことのできない行為であると感じた。

いまや、世界中の建築事例やデザインを容易に参照できる時代である。施主の要望、予算、施工、構造、法規といった条件を満たす形態や空間は、技術によって数多く生み出すことができる。

しかし建築の本質的な価値は、完成した成果物の見栄えや条件への適合だけに宿るものではない。そこに至るまでのプロセス、設計者の背景や経験、固有の感覚、そして試行錯誤のなかに残された思考の痕跡にこそ、建築の説得力は生まれる。

一方で、プレゼンテーションという形式にも限界がある。

限られた時間では、提案の魅力や複雑な思考を十分に伝えきれないことがある。会場の環境や発表順、話すことへの得意・不得意も、評価に影響を与えうる。言葉で説明することに長けた設計者が有利になる一方で、直感的で複雑な思考を言語化しにくい設計者は、不利になる可能性がある。

この不均衡をいかに補うかは、今後の審査設計における重要な課題である。

GADOのオンライン評価は、図面、文章、画像、模型写真、映像など、多様な形式のデータを提出・分析できる可能性をもたらした。しかし同時に、審査員が提出物を読み取るだけの、一方通行の評価になりやすいという課題も抱えていた。

今回の経験を通じて私は、設計者自身が動画や音声、対話などを通じて、思考やプロセスを語る機会を設けることの重要性を強く感じた。

審査員による解釈だけに委ねるのではなく、設計者が自らの意図や個性を多面的に表現できる仕組みをつくること。データによる分析と、人間同士の対話を接続すること。その両方が必要である。

審査は、単なる判定ではない。

それは思想と思想の対話であり、建築文化が何を価値として選び取るのかを映し出す鏡である。

設計展FLAPでの経験は、GADOが目指す多次元的な建築評価の方向性を、より確かなものとして示してくれた。データと人間、客観性と主観性、提出物と対話。そのすべてを切り離すのではなく、相互に補完し合う評価の構造を設計していくことが、これからの課題である。

第7章|2026年──卒業設計展のその先へ

5年間の観察から見えた建築評価の限界と、GAASが拓く次世代の知の基盤

2026年、全国各地の卒業設計展を巡りつづけてから、五年が経過した。

赤れんが卒業設計展、全国卒業設計展、新潟や北海道をはじめとする地域の展示を訪れるなかで、私は日本の卒業設計文化が、世界的に見ても希有な知的実験の場であることをあらためて実感してきた。

そこでは、学生一人ひとりが時間をかけて考え抜いた建築の思想が、図面、模型、映像、文章、プレゼンテーションとして社会に直接ひらかれる。教育の内部で生まれた思考が、建築家、学生、企業、地域、一般の来場者との対話へと接続される。この開かれた環境は、日本の建築文化が持つ大きな価値のひとつである。

一方で、五年間にわたり各地の展示と講評を見つづけるなかで、私は強い違和感も抱くようになった。

それは、講評と評価の構造が、長い時間を経ても驚くほど変化していないことである。

多くの講評は、教授や建築家の個人的な価値観、実務経験から得られた知見、美学的な好み、あるいは設計者への助言として語られる。そのこと自体を否定するべきではない。

建築は本来、主観や直感から始まる創造的な営みである。ときに恣意的にも見える批評や、経験に根ざした個人の言葉が、新しい建築の可能性を見出し、建築文化を前へ進めてきたことは確かである。

しかし、情報が共有され、蓄積され、検索され、再利用される現代において、創造的なデザインを取り巻く条件は確実に変化している。

個々の展示だけを見ていると気づきにくい。しかし、全国の作品を五年間にわたって横断的に見たとき、私は、似た思考、似た空間構成、似たデザインアプローチが、徐々に増えていると感じた。

これは、学生の能力や意欲が低下しているということではない。むしろ、情報が広く流通し、優れた事例に誰もが容易にアクセスできる時代だからこそ起こる、構造的な現象である。

作品の母数が増え、参照可能な情報が増えれば、類似した提案が生まれる可能性も高くなる。独自性を生み出すことは、もはや「何も知らない状態で新しい形をつくること」ではない。膨大な既存の情報のなかで、自らの提案が何を継承し、何を更新し、何と異なるのかを理解することが、これまで以上に重要になっている。

ここに、GAAS(Generative Architectural Assessment System)の必要性がある。

GAASは、建築家の思考を否定するものではない。また、設計を自動化するためだけの補助ツールでもない。情報化社会において建築を読み解き、比較し、共有し、次の創造へと接続するための知的基盤である。

近代建築が構造理論や都市計画理論を前提として発展してきたように、AIと情報の時代における建築は、評価体系と情報構造を前提として、さらに発展していくはずである。

GAASは、建築を多層的に記述する。

対象、空間、構成要素、機能、技術、文脈、過程、主体、時間、評価といった複数の次元から建築を読み解き、設計者の思考を可視化する。そして、異なる作品を比較可能にし、そこから得られた知見を世界と共有可能な形式へと変換する。

その目的は、建築を単純な点数や順位に還元することではない。

学生の直感を理解可能な知識へと変換し、建築家の主観的な批評を社会的に共有できる価値へと接続すること。そして、個人の経験や印象だけに依存しがちな建築教育を、体系的で累積可能な知へと進化させることである。

GAASによって、学生は自らの提案が何に優れ、何が未整理であり、過去や現在の多様な建築とどのような関係にあるのかを、より多角的に理解できるようになる。審査員は、自らの判断を放棄するのではなく、より広い比較対象と明確な論拠をもって批評を行えるようになる。

評価は、創造の後に行われる結論ではない。

評価は、設計の前提を問い直し、設計の過程を導き、次の創造を生み出すための行為である。

私は、単に建築家になることを目標としているのではない。建築を評価し、理解し、共有する方法そのものを設計したいと考えている。

卒業設計展という日本独自の文化を、世界にひらかれた知のプラットフォームへと発展させること。そしてGAASを基盤として、新しい建築デザインを生み出しつづけること。

建築をつくるだけでなく、建築がどのように読まれ、評価され、社会に伝えられるかという仕組みまでを設計する。そのような次世代の建築家となることが、私の目指す姿である。

第8章|2026年9月5日──客観性の獲得

設計展FLAP2026で見えた、建築デザインと設計評価における新たな知的基盤

建築デザインは長らく、建築家個人の感性、経験、直観、そして長年にわたるスタディの積み重ねによって成立してきた。設計案の価値もまた、図面や模型を前にした審査員の経験的判断や、言語化しにくい感覚に委ねられることが多かった。この主観性は、建築に固有の創造性や多様性を支える重要な条件である。

しかし、主観的な判断だけでは、ある提案が「なぜ優れているのか」「何と比較して優れているのか」「どの程度優れているのか」を共有し、検証し、次の設計へ還元することは難しい。優れた講評があったとしても、それが審査員個人の経験や感覚に強く依存していれば、設計者や社会にとって再利用可能な知識にはなりにくい。オープンソースAI、画像認識、言語モデル、建築データベース、BIM、環境シミュレーションなどが普及する情報化社会において、建築は新たな段階に入っている。建築作品、図面、写真、材料、コスト、環境性能、利用状況、地域的文脈などを横断的に参照し、比較・分析する技術的条件が整いつつある。いま必要なのは、建築を単純な点数やランキングに還元することではない。多様で複雑な建築的価値を、より明示的に、比較可能に、説明可能にするための評価基盤である。

設計者は、自らの提案について、少なくとも次の問いに答えられる必要がある。

この建築は、どのような点で優れているのか。その優位性は、空間、形態、構造、環境、機能、施工、事業性、社会性、文化性、時間性のどの次元にあるのか。どの建築、地域、用途、時代、技術水準と比較しているのか。比較対象のスケールは、部材、室、建築、街区、都市、地域のどこに設定されているのか。提案は、敷地の歴史、利用者、環境、制度、経済、将来像と整合しているのか。その判断は、第三者が資料、根拠、手順を追って再検討できるものか。これは、設計を効率化するためだけの問いではない。設計競技、建築賞、認定、事業者選定、公共建築のプロポーザル、開発計画の意思決定など、建築を評価し、選択するあらゆる場面に関わる問いである。

評価の基準、対象範囲、比較対象、配点や重み、判断の根拠が明らかでなければ、順位、受賞、認定、採否といった決定は、十分に説明されないまま固定化される。

とりわけ建築学生コンペでは、この問題が顕著に現れる。

審査員の講評には、長年の設計経験に裏打ちされた鋭い視点や、魅力的な言葉がある。一方で、「面白い」「建築的である」「可能性がある」といった表現だけでは、学生は何を継承し、次に何を改善すべきかをつかみにくい。さらに、審査員の世代、設計教育の背景、表現上の好みが結果に過度に影響すれば、新しい技術環境や社会課題に応答する提案が、十分に評価されない可能性もある。

問題は、主観的な講評を排除することではない。むしろ、主観的な批評の価値を残しながら、それを支える客観的な評価層を整備することである。たとえば、評価を「概念」「デザイン」「対象」「文脈」「実現性」「社会的効果」などの複数次元に分け、各次元で何を見ているのかを明示する。比較対象と評価対象のスケールを揃え、データ、事例、根拠を記録し、複数の評価者による判断の差異も可視化する。その上で初めて、批評は単なる印象ではなく、共有され、検証され、発展していく建築知となる。

GAASが目指すのは、建築の価値を一つの正解や単一の順位に閉じ込めることではない。建築を多次元的に読み解き、異なる価値観の位置関係を可視化し、判断の根拠をひらくことである。AIやデータベースは、建築家に代わって設計するための道具ではない。建築家、学生、施主、市民、審査員が、より精度高く考え、対話し、選択するための知的基盤である。これから問われるのは、どれほど多くのスタディを重ねたかだけではない。限られた時間のなかで、どの情報を参照し、どの比較を行い、どのような根拠から設計判断を導いたのかである。

情報化社会における建築家には、創造性とともに、自らのデザインを客観的に説明し、社会に対してその価値を示す能力が求められている。

GAASは、そのための新しい建築評価の言語と基盤を構築する試みである。

第9章|2026年9月12日──理解されない未来

建築新人戦審査員の建築評価の停滞とGADOが独自に進むべき理由

​​​

2026年、GAASによる審査の可能性を建築新人戦を視察し実行委員と対談した。実行委員を務める一人の年長の教員だけが、GAASが何をしようとしているのかを十分に理解しようとする前に、「AIに建築家の評価はできない」「建築を定量化した時点で間違っている」と断言し、その可能性そのものを否定する姿勢を示した。

私はその反応を受けた瞬間に、「またこのタイプか」と理解した。

「AI」という言葉に対して先入観や拒絶反応を示し、その後どれだけ丁寧に説明しても、最初に抱いた印象から容易には離れられないタイプである。しかし、その反応はよくあることである。AIが建築家の判断を代替し、人間の感性や職能を奪うのではないかという警戒感は、現在の建築界に広く存在している。そもそもGAASは、「AI」ではない。その誤解や不安を乗り越えるために開発している

 

AIに建築の良し悪しを決めさせるのではなく、客観的な情報や分析を新たな視点として加え、そのうえで建築家やクライアントが判断し、議論するための基盤をつくろうとしている。だから私は、その拒絶反応に対して感情的に反発するのではなく、相手の警戒を解きほぐすように、GAASが何をするもので、何をしないものであるのかを一つずつ説明し続けた。AIが建築家を置き換えるのではないこと、定量化が価値判断そのものではないこと、人間による批評や議論をむしろ深めるための仕組みであることを、できる限り丁寧に伝えようとした。

私は単なる意見の違いではなく、新しい可能性を理解する前に閉ざしてしまう強固な壁を感じた。しかし、GAASは建築家に代わって建築の良し悪しを決めるシステムではない。建築家の感性を否定するものでも、審査員の職能を奪うものでもない。建築作品、設計者、設計過程、敷地、環境、構造、材料、機能、社会的条件などに存在する情報を分析し、整理し、構造化し、可能な限り客観的、定量的、論理的、比較可能な状態として表現するための基盤である。その建築を良いと判断するのか、悪いと判断するのか。それを決めるのは人間である。GAASは価値判断そのものを機械へ渡すための仕組みではない。人間の判断を、より深く、より鋭く、より説明可能なものへ進化させるための仕組みである。

それにもかかわらず、「定量化した時点で間違い」と切り捨てるのであれば、それは議論ではない。思考停止である。建築はすでに、面積、寸法、構造性能、環境性能、建設費、工期、人口、交通量、収容人数、避難距離など、無数の定量情報によって成立している。問うべきなのは、定量化するかしないかではない。何を、どこまで、どの方法で、どの精度まで捉えることができるのかである。測定には限界がある。AIにも限界がある。GAASにも限界がある。しかし、限界があることと、挑戦する価値がないことはまったく別の話である。完璧ではないから研究する。不完全だから検証する。間違う可能性があるから更新する。それが研究であり、技術であり、知の発展である。「完璧ではない」という理由だけで新しい方法そのものを拒絶する姿勢から、新しい建築の知は生まれない。

 

私は建築新人戦との対話を通して、強烈な矛盾を感じた。建築新人戦は、次世代の建築を担う若い設計者を評価する場である。学生には既存の建築を超えることを求め、新しい空間をつくることを求め、社会を変える提案を求める。にもかかわらず、評価する側が新しい評価方法を理解する前から拒絶するのであれば、それはあまりにも矛盾している。学生には未来を求めながら、審査する側は過去の方法にとどまる。学生には常識を疑えと言いながら、自らの評価方法は疑わない。それで本当に未来の建築を語ることができるのだろうか。私はできないと思う。

そして今回の経験によって、GADOの進むべき方向は完全に明確になった。

 

建築新人戦の建築制度に理解されることを前提としてはいけない。既存のコネクションに依存する必要もない。GADOは独自に進む。自ら作品を集め、自ら分析し、自らデータベースを構築し、自ら評価体系を研究し、自ら賞や認定制度をつくる。そして実務の建築へ入り、結果によってGAASの有効性を証明する。

bottom of page