top of page

M-DCT

Multidimensional - Design Construction Theory
​多次元構築設計論

​第0章|完璧な建築を目指して

「完璧な建築とは何か」

0-1|「完璧な建築」は誰も求めていない

0-2|「最優秀」は「完璧」ではない​​

0-3|「最適解」の延長にある「完璧な建築」​

0-4|情報社会における完璧性の必然性

0-5|「主観」と「客観」の共創による完璧性へ​

0-6|成長する完璧性

0-7|「完璧な建築は存在しない」で終わらせない「挑戦」

0-8|GADOは何に「挑戦」するのか

​

第1章|建築デザインのブラックボックス

「私たちは、どのように建築を判断しているのか」

1-1|人間側のブラックボックス

1-2|AI側のブラックボックス

1-3|二つのブラックボックスの関係

1-4|人間とAIの共存は必然なのか

1-5|可視化によって何が変わるのか

1-6|人間とAIの相乗効果

1-7|人間とAIが共に建築を考える時代

​

第2章|情報社会における建築デザインの課題

「情報が増えたことで、何が難しくなったのか」

2-1|情報の民主化と建築デザインの変質

2-2|創造の同時多発性とオリジナリティの不確定化

2-3|アルゴリズムと建築デザインの収斂

2-4|場所と時間の横断による建築デザインの均質化

2-5|断片的な共有による建築デザインの抽象化・安易化

2-6|建築評価の不透明性——審査員・評価者の課題

2-7|評価される建築デザイン——大学教授・建築学生の課題

2-8|イメージによる意思決定——クライアント・発注者の課題

2-9|情報過剰・文脈喪失・評価構造の不在

​

第3章|情報社会における建築デザインの価値転換

「これから何を価値として設計するのか」

3-1|情報の価値は「所有」から「構造化」へ変わる

3-2|建築の価値は「単独の作品」から「相対的な位置」へ変わる

3-3|創造性は「新しい形」から「新しい関係」へ拡張する

3-4|建築は「視覚的作品」から「多層的な情報体」へ変わる

3-5|「良い建築」は単一の価値から複数の価値へ変わる

3-6|AIによって価値は「生成する能力」から「判断する能力」へ移る

3-7|設計は「完成させること」から「循環させること」へ変わる

3-8|情報の「量」よりも「関係」が重要になる

3-9|主観と客観は対立から循環へ変わる

3-10|「建築を設計する」から「思考を設計する」へ

3-11|建築を「単一の視点」から「多次元的な構造」へ変える

3-12|多次元構築設計論——次世代の建築デザインへ

​

第4章|建築家の職能の変化と次世代の建築家像

「これから建築家は何をする存在になるのか」

4-1|建築家は何をしてきたのか

4-2|建築家と設計者の違い、それぞれの職能の変化

4-3|スターアーキテクトの終焉──分散する建築家の影響力

4-4|情報社会によって変わる建築家や設計者の役割

4-5|次世代のスターアーキテクト

​

第5章|多次元構築設計論

「建築を多次元的に捉えるとは何か」

5-1|多次元構築設計論とは何か

5-2|建築は一つの軸では説明できない

5-3|対象を分解する

5-4|文脈を捉える

5-5|要素を捉える

5-6|属性を捉える

5-7|関係性を捉える

5-8|時間とプロセスを捉える

5-9|異なる次元を横断する

5-10|建築を「形」ではなく「構造」として捉える

​

第6章|建築を分析・評価する

「建築をどのように可視化し、比較し、評価するのか」

6-1|分析と評価は何が違うのか

6-2|建築を分析可能な情報へ変換する

6-3|何を対象として見るのか

6-4|何を比較するのか

6-5|何を評価するのか

6-6|定量評価と定性評価

6-7|主観を排除するのではなく構造化する

6-8|評価軸と重みづけ

6-9|評価結果を設計へフィードバックする

6-10|「良い建築」を説明可能にする

​

第8章|人間とAIによる建築デザイン

「AI時代に、人間は何を判断するのか」

8-1|AIは建築を設計できるのか

8-2|AIが得意な判断

8-3|人間が得意な判断

8-4|生成AIから分析AIへ

8-5|一案をつくる設計から多数案を比較する設計へ

8-6|AIによる建築分析

8-7|AIによる建築評価

8-8|設計者とAIの判断を接続する

8-9|人間とAIによる共創

8-10|建築デザインの新しい意思決定構造

​

終章|完璧な建築は存在するか

終-1|完璧とは一点の答えではない

終-2|すべての建築には異なる最適解がある

終-3|「良さ」を説明できる建築へ

終-4|評価される建築から成長する建築へ

終-5|人間とAIがつくる新しい建築知

終-6|完璧な建築を目指し続ける

第0章  |   完璧な建築を目指して
「完璧な建築とは何か」

建築に「完璧」は存在するのだろうか。

​

建築には唯一の正解がなく、美しさも、使いやすさも、経済性も、社会性も、時代や場所、立場によって変化する。すべての価値を同時に満たすことなどできない。だから建築に完璧を求めること自体が、無意味だと考えられてきた。

​​

完璧な建築が存在しないとしても、私たちは建築をより良くしようとし続けている。設計者は案を比較し、構造を合理化し、環境性能を高め、コストを調整し、より美しく、より使いやすく、より社会に適した建築を目指す。建築賞では最も優れた作品を選び、設計競技では無数の案から一案を選び、実務では与えられた条件の中から最適解を探している。

​

問題は、完璧な建築が存在するかどうかではない。私たちが、建築の価値をどこまで理解できているのかである。

何を見ればよいのか。何を比較すればよいのか。誰にとっての価値なのか。何が不足しているのか。どこまで改善できるのか。そして、それらの判断はどのような情報と価値観によって生まれているのか。これまで建築は、多くの主観的な判断によってつくられ、評価されてきた。しかし現在、建築を取り巻く膨大な情報が蓄積され、比較され、分析できる時代が始まっている。人間一人では捉えきれなかった建築の価値や関係を、これまでとは異なる解像度で考えることが可能になりつつある。だから今、「完璧な建築」という一見不可能な問いを、もう一度正面から考える意味がある。

​

本章では、完璧とは何かを定義することから始めるのではない。なぜ私たちは完璧を求めてこなかったのか。「最優秀」と「完璧」は何が違うのか。「最適解」を突き詰めた先に何があるのか。そして、情報社会とAIの時代において、なぜ今あらためて完璧性を考える必要があるのか。

​

「完璧な建築は存在しない」と結論づける前に、まず、私たちは建築についてどこまで知っているのかを問い直す。

そこから、本書は始まる。

0-1|「完璧な建築」は誰も求めていない

 

完璧な建築は、誰も求めていない。

​

​私はこれまで建築をデザインし、設計してきた中で、「完璧な建築をつくってほしい」という要求を聞いたことがほとんどない。施主は予算と工期の中で要求を満たす建築を求め、事業者は事業として成立する建築を求め、利用者は快適で使いやすい場所を求める。設計者もまた、すべてを最大化することより、膨大な条件の中から何を優先し、何を諦め、最終的にどのような建築としてまとめるのかを考えている。

安全であればよい。使いやすければよい。事業として成立すればよい。あるいは、単純にそこにいることが楽しく、心地よければよい。それらはどれも建築にとって本質的な要求である。しかし、それは必ずしも「完璧であること」を意味しない。

私はこれまで多くの審査や講評、評論を行う中で、「完璧な建築」という言葉を使ってきた。しかし、その言葉を出した瞬間に、議論そのものを真っ向から否定されることも少なくなかった。「そんなものは存在しない」「建築に完璧などない」「そもそも建築を完璧にすることなどできない」。

その反応は理解できる。建築には、美しさ、使いやすさ、安全性、経済性、環境性能、耐久性、施工性、社会性、文化性など、極めて多くの価値が存在する。さらに、施主、利用者、設計者、施工者、事業者、行政、近隣住民など、異なる立場を持つ多くの人々が関係している。

ある人にとって優れた建築が、別の人にとっても優れているとは限らない。現在高く評価されている建築が、百年後にも同じように評価される保証もない。地域や文化、社会、時代が変われば評価も変わる。そう考えれば、「完璧な建築など存在しない」という考え方は自然であり、常識的ですらある。

しかし私は、そこで議論を終わらせることに違和感を持った。

一つの価値だけを最大化すれば、別の価値との矛盾が生まれることがある。経済性を高めれば快適性が損なわれるかもしれない。開放性を高めればプライバシーが低下するかもしれない。しかし、それぞれの価値を切り離して考えるのではなく、それらの関係を理解し、一つの建築の中で可能な限り統合していくことはできないだろうか。

すべての価値を同時に最大化することはできなくても、何が対立し、何が両立し、どのような条件で相互に補完できるのかを理解することはできる。

私は、その先に「完璧性」があると考えている。

完璧性とは、ある建築が突然100点になることではない。あらゆる価値を最大化することでもない。建築を考えるうえで何を見るべきなのかを可能な限り把握し、それぞれの価値と関係を理解し、何が不足しているのかを問い続けることである。

誰も求めていないものを、なぜ目指すのか。存在しないと言われるものを、なぜ研究するのか。

私は、そこにこそ面白さを感じている。

​​

​

​

​​

​

​

0-2|「最優秀」は「完璧」ではない​​

 

建築分野では、建築賞、設計競技、卒業設計展、作品選集などを通して、「どの建築が最も優れているか」が繰り返し議論されてきた。唯一の正解が存在しない建築においても、私たちは「一位」や「最優秀」を決めようとする。

「美しい」「面白い」「優れている」という判断には曖昧さがある。しかし、「一位」「最優秀」と言われれば分かりやすい。順位は、複雑な価値を一つの情報へ圧縮する。また、順位には意思決定の役割もある。設計競技に百案が提出されたとしても、通常実現されるのは一案である。どこかで議論を終え、一つを選ばなければならない。

その意味で「最優秀」とは、絶対的な完全性を証明するものではなく、複数の可能性の中から一つを選択するための仕組みでもある。

ここで重要なのは、「最優秀」は「完璧」ではないということである。

ある設計競技でA案が一位になったとしても、それによってA案から欠点がなくなるわけではない。改善できる部分は残っているかもしれないし、評価基準が変わればB案の方が高く評価される可能性もある。それでもA案は、その時点、その条件、その候補群、その評価者の中では「最優秀」として成立する。

つまり、最優秀とは「この中では最も良い」という相対評価である。一方、完璧性とは、**「この建築には、まだ何が足りないのか」「どこまで良くなり得るのか」**を問い続けることである。

最優秀は他者との比較であり、完璧性はその建築自身が持つ可能性との比較である。

これまで私たちは、AとBとCを比較し、「どれが最も良いか」を判断するための制度を数多くつくってきた。しかし、一つの建築を取り出し、「この建築には何が不足しているのか」「さらにどこまで改善できるのか」を体系的に考える方法については、同じほど発展させてこなかった。

建築賞やコンペが複数の建築を比較する横方向の評価だとすれば、本書が扱う完璧性は、一つの建築の可能性を掘り下げていく縦方向の評価である。

最優秀に選ばれた建築であっても、まだ改善できる部分がある。まだ理解されていない価値がある。まだ発見されていない可能性がある。

その「まだ」を追究するところから、完璧性の議論は始まる。​​​​

​

​​

​

​

​

​

0-3|「最適解」の延長にある「完璧な建築」​

 

現代社会では、「完璧」という言葉よりも「最適」という言葉が好まれている。最適な配置、最適な構造、最適な環境計画、最適なコスト、最適な事業計画、最適なデザイン。

実際の建築には、予算、工期、法規、敷地など数多くの制約があり、すべてを最大化することはできない。だからこそ、与えられた条件の中から最も適した状態を導き出す「最適化」は、現代の建築にとって極めて重要な考え方である。

しかし、ここには重大な前提がある。

何を、どこまで最適化しているのか。

「この条件では最適である」「今回の検討範囲では最適である」という表現は成立する。しかし、それは同時に、その外側に評価していない領域が存在することも意味している。構造について最適であっても、環境について最適とは限らない。コストについて最適であっても、快適性について最適とは限らない。

最適解を理解するためには、何を評価対象とし、何を対象としていないのか、その境界を理解しなければならない。

さらに重要なのは、その最適解がどのような過程によって導かれたのかである。入力された条件、評価基準、判断の過程が分からないまま、出力された「最適解」だけを受け取ることは危険である。AIによる判断が高度になればなるほど、この問題は大きくなる。

何を見るのか。誰にとって評価するのか。どの時間軸で考えるのか。どのような価値を扱うのか。それぞれは何と関係しているのか。何を対象とし、何を対象外としたのか。

本来考慮すべきものを見落としたままでは、どれほど高度な計算を行っても、その答えは限定された世界の中での最適解にすぎない。

だから私は、より完全な最適解を求めるほど、その前提となる評価の世界も限りなく完全でなければならないと考えている。

ここでいう「完璧」とは、すべての項目を100点にすることではない。あらゆる価値を同時に最大化することでもない。建築を判断するために本来考慮すべき対象、価値、条件、主体、時間、関係を可能な限り取りこぼさず把握し、それらの関係を理解することである。

評価する世界が狭ければ、どれほど正確に最適化しても、得られるのは狭い世界の最適解である。反対に、評価する世界を広げ、その構造をより深く理解できれば、導かれる最適解も建築全体の可能性へ近づいていく。

不完全な基準から、完全な最適解は生まれない。

私は、この延長線上に「完璧な建築」があると考えている。

つまり、「最適」と「完璧」は対立するものではない。最適解をより深く、より広く追究していった先に、完璧性という問いが現れる。​​​

​

​​

​

​

​

0-4|情報社会における完璧性の必然性

 

建築の完璧性そのものは、昔から考えることができたはずである。しかし、これまでそれを体系的に研究することは極めて難しかった。一人の人間が見ることのできる建築、読むことのできる文献、記憶できる情報、比較できる評価項目には限界があったからである。

現在、その条件は大きく変わり始めている。建築を取り巻く膨大な情報がデジタルデータとして蓄積され、私たちは以前とは比較にならないほど多くの建築情報へアクセスできるようになった。画像解析によって建築の形態や材料を分析し、自然言語処理によって膨大な設計説明や批評、講評を比較・分析することも可能になりつつある。さらにAIによって、人間一人では扱えない量の情報から、共通点や差異、関係性を読み取ることも可能になってきた。

つまり、**「建築を可能な限り完全に理解する」**という、これまで理念として語ることしかできなかった問題を、実際の情報を用いて研究できる条件が初めて整い始めている。

完璧性に本格的に挑戦できる時代が、ようやく訪れたのである。

しかし、現代では完璧性を追究することが「できるようになった」だけではない。情報社会だからこそ、それを追究することが「必要になった」とも考えている。

かつて問題だったのは情報不足だった。しかし現在は、情報が多すぎることが新しい問題になっている。法規、構造、設備、環境、エネルギー、材料、コスト、防災、景観、都市、地域、利用者、事業、運営。建築を取り巻く情報は増え続け、それぞれの領域も高度に専門化している。

だから、これから重要になるのは、情報の量そのものではない。

情報の構造である。

膨大な情報の中に何が存在し、それぞれがどのように関係し、どの評価や判断へ接続するのか。情報が増えれば増えるほど、それらを整理し、関係づけ、利用可能な知識へ変換する体系が必要になる。

AI時代に不足するのは、建築の案そのものではないのかもしれない。百案、千案、一万案を生成できたとしても、それらを評価する構造がなければ、何を選ぶべきかは分からない。

むしろ重要になるのは、膨大な情報と選択肢を前にして、**何を見るべきか、何を比較すべきか、何をもって良いと判断するのかを体系的に示す「評価の構造」**である。

情報社会は、建築の完璧性を追究するための情報と技術を与えた。同時に、その情報が増えたことで、それらを構造化し、理解し、評価へ結びつける必要性も生み出したのである。

しかし、ここで一つ重要な問題が残る。

情報をどれほど集め、どれほど精密に構造化しても、それだけでは「何が良い建築なのか」を決めることはできない。なぜなら、建築の評価には、人間が何を美しいと感じ、何を心地よいと感じ、何に価値を見出すのかという「主観」が含まれているからである。

情報社会によって客観的な分析の可能性が大きく広がったからこそ、次に問うべきなのは、その客観的な情報と人間の主観を、どのように結びつけるのかという問題である。​​​​

​​

​

​

​

​

0-5|「主観」と「客観」の共創による完璧性へ​

 

建築の評価では、建築家や審査者が持つ感性、思想、経験といった「主観」が大きな役割を担ってきた。「美しい」「独創的である」「力強い」「繊細である」「場所性がある」「建築的である」。こうした判断は、建築の価値を発見するうえで重要であり、客観的な情報だけで置き換えられるものではない。

一方で、その主観がどのように生まれているのかについては、十分に説明されていないことも多い。

なぜ美しいのか。何が独創的なのか。どの要素が力強さを生み、どの関係が場所性を成立させているのか。経験豊富な建築家が「こちらの方が良い」「ここは弱い」と瞬間的に判断できても、その判断の内部にある形態、寸法、材料、光、環境、文化、経験などの関係を、すべて言葉として説明することは容易ではない。

だからこそ、主観を排除するのではなく、主観そのものを分析の対象にする必要がある。

人間が「良い」と感じた判断を出発点として、その判断が何によって生まれているのかを客観的に分析する。複数の人間の評価を比較し、どこに共通性があり、どこから違いが生まれるのかを調べる。そうすることで、これまで個人の内部に蓄積されていた感性や経験を、少しずつ共有可能な知識へ変えていくことができる。

必要なのは、「主観」と「客観」の共創である。

ここで重要なのは、主観を客観へ一方向に変換することではない。

主観によって建築の価値を発見する。その価値を客観的に分析する。分析によって、これまで意識されていなかった関係や特徴が明らかになる。その知識が再び人間へ戻ることで、新しい見方や判断が生まれる。そして、その新しい判断が次の設計へ反映される。新しく設計された建築は、再び分析され、評価される。そこからさらに新しい価値や問題が発見され、評価の方法そのものも更新される。

主観 → 設計 → 分析 → 評価 → 知識 → 新しい主観 → 再設計

という循環が生まれる。

この循環の中では、主観と客観は対立しない。主観が分析すべき価値を発見し、客観がその構造を明らかにし、その結果が再び主観を拡張する。

同じように、設計と評価も対立しない。設計されたものを評価するだけではなく、評価によって得られた知識が次の設計を変える。 そして、新しい設計が生まれることで、これまでの評価基準では捉えられなかった新しい価値が現れ、評価体系そのものも更新される。

設計が評価を生み、評価が次の設計を生む。主観が客観を生み、客観が次の主観を生む。この相互作用が繰り返されることによって、建築そのものと、それを理解するための評価体系の双方が成長していく。

私は、この循環こそが「完璧性」を考えるうえで重要だと考えている。主観と客観、設計と評価を何度も往復しながら、建築についての理解そのものを深め続けることである。

そして、この循環という考え方が、次の「成長する完璧性」へつながる。​​

​​

​

​

​

​

0-6|成長する完璧性

 

「完璧性」は、固定された完成状態ではない。完璧性は、主観と客観、設計と評価の循環によって更新され続ける。

新しい建築を設計する。それを分析し、評価する。そこから新しい価値や不足を発見する。その発見を知識として蓄積し、評価体系を更新する。そして、更新された知識を次の設計へ反映する。

主観 → 設計 → 分析 → 評価 → 知識 → 新しい主観 → 再設計

という循環である。

この循環が続くことで、建築そのものだけではなく、「建築をどのように理解し、どのように評価するのか」という基準そのものも成長していく。

社会も変化する。新しい技術が生まれる。新しい材料が生まれる。新しい建築がつくられる。人間の生活や価値観も変わる。今日十分だと思われる評価基準が、十年後には不足している可能性がある。だから、完璧な評価体系が一度完成し、そのまま永久に使えるとは考えていない。

不足が見つかれば追加する。分類に問題があれば修正する。新しい価値が現れれば拡張する。過去の評価では十分に捉えられなかったものが見つかれば、その評価方法自体を見直す。

つまり、重要なのは「完全な答え」を固定することではない。自らの不完全性を発見し、それを次の設計と評価へ反映できる仕組みを持つことである。

完璧とは完成ではない。

完璧性とは、成長し続ける方向である。​​

​​

​

​

​

​

0-7|「完璧な建築は存在しない」で終わらせない「挑戦」

 

「完璧な建築など存在しない」。そう考えるのは簡単である。

しかし、本当に存在しないと言い切れるのだろうか。

そもそも私たちは、建築の価値をすべて理解しているわけではない。何をもって完璧とするのかも、まだ十分に説明できていない。もし完璧に近い建築が目の前にあったとしても、それを完璧に近いものとして認識できない可能性すらある。だから本書は、「完璧な建築は存在する」と証明しようとするものではない。同時に、「存在しない」と結論づけるものでもない。

むしろ問いたいのは、完璧とは何なのかを、私たちはどこまで理解できるのかという「挑戦」である。

完全な安全が存在しないからといって、安全性を研究する意味がなくなるわけではない。完全な医療が存在しないからといって、医学が進歩をやめるわけでもない。同じように、完璧な建築へ完全に到達できるかどうか分からなくても、より良い状態を理解し、そこへ近づこうとすることには意味がある。

重要なのは、「完璧になれるか」ではない。

**昨日より何を理解できるようになったのか。何が不足していると分かったのか。そして、その発見を次の設計へどう生かすのか。**その積み重ねによって、建築は少しずつ完璧性へ近づいていく。

「完璧は存在しない」と結論づけるのではなく、「完璧とは何か」を問い続ける。

それが、本書の立場である。

​

​

​

0-8|GADOは何に「挑戦」するのか

 

建築には何が存在するのか。何を分析しなければならないのか。どのような価値が存在するのか。誰にとっての価値なのか。それらはどのような関係を持っているのか。そして、人間が「良い」「美しい」「強い」「心地よい」と感じる判断の内部には、何が存在しているのか。

数値化できるものは数値化する。画像から読み取れるものは分析する。文章から読み取れるものは構造化する。人間にしか判断できないものは無理に数値へ置き換えるのではなく、その判断がどのような条件によって生まれたのかを記述する。

説明できないという事実そのものを分析対象にする。

そして、その分析結果を再び設計へ戻す。

設計された建築を分析し、評価する。評価によって不足や可能性を発見する。その情報を知識として蓄積する。蓄積された知識によって評価体系を更新し、その知識を次の設計へ戻す。

GADOが目指すのは、この循環を構築することである。

設計 → 分析 → 評価 → 発見 → 知識化 → 更新 → 再設計。

その循環の中で、人間の主観と客観的な情報を接続する。人間とAIを接続する。個別の建築と、蓄積された建築知識を接続する。

そうすることで、評価体系そのものも固定された基準ではなく、設計と評価によって成長し続ける知識基盤となる。

これまでの建築は、新しい建築をつくることに大きな力を注いできた。これからもそれは重要である。しかし、次の時代にはもう一つの方向が必要になる。

新しい建築をつくるだけではなく、建築を新しく理解する。

良い建築を選ぶだけではなく、なぜ良いのかを理解する。最優秀を決めるだけではなく、その建築にはまだ何が不足しているのかを考える。主観か客観かを選ぶのではなく、その両者を循環させる。設計と評価を分離するのではなく、互いの結果によって双方を更新し続ける。

本書が考える完璧性は、その循環の先にある。

われわれは完璧を知っているわけではない。だから研究する。完璧を説明できるわけではない。だから説明しようとする。そして、そこで得られた知識を次の設計へ戻し、再び分析し、評価する。

完璧な建築とは、一度の設計によって完成する答えではない。主観と客観、設計と評価の相互作用によって、建築とその理解の双方を、より完全な状態へ近づけ続けるプロセスなのである。

それが、『完璧な建築を目指して』という本書の出発点であり、われわれGADOが挑戦しようとしていることである。

bottom of page